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なんだ、そうだったのか

なんだ、そうだったのかのイメージ画像 とんび

モヤモヤと考え事をしている。

ハッと、何かがつながる。

「なんだ、そうだったのか」。

そう感じること、誰にもありますね。

自分にとっては新たな発見。

「そうだったのか」と気づくことで、初めて「それ」と出会う。

気づくことで、「それ」は初めて存在する。

「そうだったのか」というのは、不思議な言葉だ。

私が気づく以前から、すでに「それ」は存在していたにもかかわらず、気づくことで、「それ」は初めて私にとって存在する。

私にとっての新しい発見は、世界には自明なことかもしれない。

だから、自分が気づいたことを無邪気に人に語ったりすると、冷ややかな反応をされることもあります。

で、「知る」と「わかる」の話です。

「知る」と「わかる」。

この二つの言葉、意味が重なる部分と、ずれる部分があります。

例えば、「シオラレオネの首都はどこですか?」と質問されます。

「知りません」「わかりません」。

どちらの答えも、大丈夫ですね。

「あなたは相対性理論を理解できていますか?」

そう尋ねられたらどうでしょう。

「知りません」というのは少し不自然ですね。

「わかりません」のほうが適当です。

シオラレオネの首都は、検索すればすぐにわかります。

たんなる情報だから。

(調べたら首都名は「フリータウン」。想像力を掻き立てられますね。)

ところが、相対性理論は違います。

「この宇宙には光より速いものはない。そこから考えると、時間も空間も相対的なものとなり、伸び縮みする。(雑な説明です)。」

これを知っても「わかった」という感じにはなりませんね。

言葉はわかるけど、意味が理解できないからです。

情報をある程度もてば、「知っている」と言える。

でも言葉の意味、中身まで掴まないと、「わかった」と感じない。

「知っている」「わかっている」、重なりつつ、ずれています。

人との関わりも同じです。

名前や年齢や出身地や職業など、ある程度の情報を手に入れれば、相手を「知った」感覚になれる。

でも、それだけで相手のことを「わかった」と、実感できないでしょう。

「わかる」ためには、知った情報をもとに相手と関わり、情報から漏れている何かに触れなければなりません。

「知る」ことと「わかる」ことには少し違いがある。

あなたを「知る」ことと、あなたを「わかる」こと。

私を「知られる」ことと、私を「わかってもらう」こと。

自分は何を知っていて、何をわかっていないのか。

それこそ、自分を「わかる」ことかもしれません。

ところで、「勘違い」ってしませんか。

私はけっこうします。

例えば「大入り袋」。

あの赤い袋に白い文字で「大入」と書いてあるやつです。

あの「大入」って文字、印刷の書体だと左右対称になっています。
(「大人」って見えますね。)

あの袋を初めて意識したとき、私は「大人(おとな)」と読んでしまった。

そして、あの袋は「大人」しか手にできないものだと直感した。

何が入っているのか気になったが、尋ねられない。

子どもが口を出してはいけないものだからです。

そして何年も過ぎました。

気がつけば、私はもう大人です。

「大人袋(おとなぶくろ)」を手にする資格は十分です。

でも、「大人袋」と出会うチャンスは巡ってきません。

あれは一体なんなのだろう。何が入っているのだろう。

気になります。でも、人に聞くことはできません。

すでに私は大人だから。

大人のくせに「大人袋」を知らないなんて、たんなる半端者です。

状況は覚えていません。

あるとき、「おおいりぶくろ」という音と、赤い袋に白い字で「大人」と書かれた袋が、私の中で出会いました。

「なんだ、そうだったのか。あれは大入り袋だったのか」

新しい発見です。世界がぱあっと明るくなりました。

一人静かにその発見を喜びました。

当然ですが、私の発見と関わりなく、「大入り袋」はずっと「大入り袋」でした。

長い間の「勘違い」でした。

いや、長い間、私は勘違いしていたのでしょうか。

「大入(おおい)り袋」が「大人(おとな)袋」である。

そう思ったことは一度もありませんでした。

「あの袋」は「大人(おとな)袋」だ。

ずっとそう思っていただけです。

何が入っているか知らない。

でもそれは、一貫して「大人(おとな)袋」でした。

「勘違い」などしていませんでした。

その袋は、大人(おとな)袋であると「わかっている」。

そういう状態から、その袋は、大入り袋であると「わかっている」。という状態に変化したのです。

どちらの時も、私は「わかっていた」のです。

にもかかわらず、「わかっている」から「わかっている」に変化したその時、自分が「わかっていなかった」ということに気づいたのです。

「勘違い」というのは、それをしている時には気づけない。

「勘違い」だと気づいた時には、その勘違いは解消されている。

「わかっている」ときには、「わかっていない」ことに気づかない。

「わかっていなかった」と気づいたとき、すでに新たな「わかっている」ということが起きている。

何かが「わかる」ということは、新たな「情報」を手に入れることではありません。

自分が「わかっていなかった」と気づくことなのです。

「なんだ、そうだったのか」と。

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